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Junk Mind D.N.A.

ことばがかいてあります。

[短編小説] 灰色の夜空

『今日のために生きてきた』



『今日のために生きてきた』
 その台詞を、僕は求めていたのかもしれない。
 今、僕は走っている。
 バカみたいに息を切らせて、笑顔を浮かべて。
 心臓が破裂しそうだ。肺は焼け付きそうだ。でも、嬉しい。
 今日、僕はきっかけを手に入れた。
 新しい自分に出会うための、きっかけを。
 吐く息は白く、足音はいつもよりも響く。
 冬の夜は空気の密度が違う。そんなことにも今日初めて気付いた。
 走ることに疲れて、足を止めたら……。
 もう一度、夜空を見上げよう。

 僕らの住む街はとても汚い街だ。
 排気ガスに光化学スモッグ、工場やゴミ処理場から出る煙。
 雑音と、不味い空気と、疲れた顔をした人々……。
 灰色の夜空。
 いつからだろう? 世界が灰色にしか見えなくなってしまったのは。
 まだ幼い頃、世界は希望に満ちていた。
 どんなことでも出来る。何にでもなれる。
 そんな魔法にかかっていた。
 成長するにつれ、その魔法は徐々に効果が薄れてゆく。
 現実を知ってしまう。
 汚い街。不味い空気。下らない周囲との関係。
 中途半端な自分。
 灰色。
 黒と白の混ざり合った、中途半端で、出来損ないの色。
 黒にも白にも戻れない、行き止まりの色……。
 嫌気が差しても何も出来ず、ただ僕は自分を歪めてしまった。狭めてしまった。
 必要のないことは口にしない。波風を立てない。自分のことは語らない。
 本気を見せない。
 思春期の真っ只中でそんな風に歪んでしまった僕は──
 灰色の世界から、飛び出せずにいた。
 そう、彼女に出会うまでは。

 彼女のことを語るには、約一年遡らなくてはならない。
 今は高校一年の冬。入学して間も無い頃まで話は遡る。
 気恥ずかしさと、それを隠すための浮かれた数々の行為。無茶をやる奴もいれば、必要以上に真面目に振舞おうとする奴もいる。
まだ歯車が上手く噛み合っていない、そんな時期。
 鮮やかなピンク色をした綿菓子のような桜の木。おろしたてで皺ひとつない黒い制服。つやつやと光る革靴。
 嗅ぎ慣れない、今までとは違う校舎の匂い。
 そんな中で、僕と彼女は出会った。

「それでは、まず初めに皆さんの自己紹介から入りましょう」
 担任の女教師小林は、ひねりも何もなく、お決まりの台詞で僕らに苦行を申し付けた。
 当然、皆の口からは小さな、または大きな溜め息が漏れた。
 そんな中で、僕はひとりで違う意味合いの溜め息を漏らしていた。
(自己紹介くらい、どこでだってやるだろう?)
 それは新しいクラスメイトと担任の両方に向けられた溜め息。下らない。
 一番の奴から順に、大して面白くもない自己紹介が始まった。中には「趣味は……麻雀?」とか言ってウケを狙う奴もいたが、反応は思いの外しらけたものだった。
(皆、緊張し過ぎだっての)
 僕はこういった通過儀礼的なことには慣れている。小学校の頃に転校を三回したからかもしれない。生まれつき緊張しない性質なのかもしれない。良く分からない。
 だから、緊張している奴の気持ちも分からない。
 ちょっとした距離感と、違和感。でも、そんなものは一ヶ月もすれば無くなるだろう。今までもそうだったし、多分それはこれからも変わらない。
 僕の順番が来て、辺り障りの無い自己紹介が終わった。こんな内容だ。
「――中学校出身です。中学では陸上をやっていたので、また陸上部に入るつもりです。趣味は読書(つまり無趣味ということだ)です。これからよろしくお願いします」
 さらっと言って、すぐに椅子に座る。そしてすぐに次の奴。
 誰も注目しない。誰も何も思わない。そんなものだ。
(どうせ皆すぐに忘れるだろうしな)
 彼女の番が来て、僕はそんな考えを恥じることになる。
 凛とした声が教室に響いて、僕は左側を見た。
「奥井冴(おくい さえ)です。――中学出身。部活は剣道をやっていました。高校では弓道をやってみたいと思います」
 大きな声ではない。特別きれいな声でもない。
 ただ、その声は僕の中にゆっくりと染み込んで、広がっていった。
「趣味は……特にありません。これから一年、よろしくお願いします」
 小林先生は「はい、よろしく」と便宜的に答えた。彼女――奥井が椅子に腰を下ろす。
(何だろうな……?)
 何が違ったのだろう? 今までの奴らと。
 内容も大して差はない。態度はまあ、堂々としてはいたが、人を引き付ける何かがある訳でもない。現に僕以外のクラスメイトはさして気にもとめていなかった。
 ただ、僕だけが彼女に気を取られた。
 短く切りそろえた黒髪。顔の作りは割とはっきりしているけれど、美人というタイプではない。
 身長は十人並だし、太っている訳でも痩せている訳でもない。
 普通の、高校に入りたての女のコだ。
(何だったんだろう?)
 それからも退屈で凡庸な自己紹介はつらつらと続いた。
 でも、僕の中では彼女の声だけがずっと響いていた。

 これが、彼女との出会い。
 有り触れていて、特に語る必要もないかもしれない、当たり前過ぎる出会い。
 でも、出会いというものはいつでもそういうものなのかもしれない。
 特別な出会いに、特別な出来事が付いて来るとは限らないのだから。
 むしろ、有り触れた出会いにこそ特別な出来事は引き寄せられる。
 僕は、それを実感することになる。

 クラスメイトとも打ち解け、幾つかのグループ(言っているだけで下らない)が出来た初夏。僕は日差しの強くなり始めたグラウンドで走り続けていた。
 走ることは子供の頃から好きだった。汗をかくのも悪くない。息切れをして、心臓がバクバク跳ね上がるのすら好きだ。
 高校進学と同時に新調したスパイクが早くもボロボロになるまで、僕は走った。
 そういうこともあったからか、取りたてて記録が良い訳でもないのに、僕は先輩たちに好かれ始めていた。
 体育会系にありがちのしごきやいじめがなかったのは、僕にとって嬉しい限りだった。
(ただでさえ下らないのに……)
 下らないことを忘れるには、走るのが一番だ。
 息を弾ませて、汗を流して、ひたすらに、しゃにむに、走る。
 走っていればそれで良い。そこまで単純にはなれなくても、せめて走ることに関しては誰からも文句は言われたくない。その程度の自由はあっても良いはずだ。
 それに、ただ単純に走ることが好きというのも理由のひとつではある。
 学校は、正直嫌いだ。昔から嫌いだったので、理由なんてもう分からなくなってしまっている。家に篭っていてもやることはないし、学校を辞めてまでやりたいことが見付からない。だから来ているだけだ。
 どんなに没個性で退屈で平坦でも、学校に来れば何かしらやることはある。暇もつぶれる。
(でも……)
 トラックの一角にさしかかると、僕はそんな自分の考えが酷く惨めなものに思えてくる。
 弓道場のある辺り。奥井冴が部活に励んでいる辺り。
 トラックは言うに及ばず楕円形。そこを僕らはぐるぐると、それこそバターになるのではないかというくらいに回る。一周は400メートル。十周すれば4キロ。結構な距離だ。
 長距離選手の僕は、そこを一日二十周する。他の先輩や、他の同級生達と一緒に。
 一日二十回、僕は自分をみじめだと思う。最低でも。
 この頃になるとクラスメイトたちの性格もだんだんと分かり始めてくる。
 奥井冴は、真っ直ぐな奴だった。少なくとも僕はそう感じた。
 意識してそうした訳ではないけれど、僕と奥井は割と良く話す。席が近いからかもしれない。他に理由があるのかもしれない。良く分からない。
 奥井と話している時、僕は自分がひどく惨めな人間だと感じてしまう。
 彼女はいつでも前向きで肯定的で好意的だ。僕はそうじゃない。どちらかと言えば後ろ向きだし、全ての物事を肯定することは危ないと思っている。好意なんてものは知らない。持ち合わせていない。
 こんな考え方をしている僕は、とても惨めなのだ。そう、実感してしまう。
 でも、性格なんてそうそう簡単には変わらないし、どういう風に変えれば良いのかもはっきりとは分からない。だから僕は惨めな気持ちに耐えている。彼女と話している間中、ずっと。
 トラックは楕円形。走っていれば弓道場は過ぎて行く。でも、またすぐに近付いて……。
 僕は、とても、惨めだ。
 そんなことを思うようになったのは、夏を前にした色濃い夕暮れの中だった。

 数々の出来事(下らないものもそうでないものも)があった夏休みが過ぎて、文化祭の季節。
 僕らのクラスはささやかながら芸術展を開くことになった。クラスでも目立っている数人のグループが言い出したことが通ってしまったのだ。
 芸術展。なんて下らないんだろう。
 人には向き不向き、得手不得手があるのだから、なにも強制することはないだろうに。
 そう思っていても、転がり始めてしまったものは仕方ない。皆不満を言いながらも、初めての文化祭ということもあってそれなりに活気付いていた。
「芸術って言ってもさ、詩作とかもアリだよな?」
「じゃあ俺、それに絵でも描くかな?」
「あ、私ぬいぐるみ作れるよ!」
「壁アートならそれなりに出来るのにな……」
 そんな声があちこちでしていた。
 溜め息が聞こえるよりはずっと良い。夏休みを越えて、クラスにもまとまりというものが出来てきたのだろう。良いことだ。
「奥井はさ、どうする?」
 僕がそう尋ねると、奥井はこう答えた。
「私、体を動かすのは好きなんだけどね……」
 困ったような、でも楽しいような、どっち付かずの笑顔。
「でも、うん。何か考えてみるよ」
 そして女友達の方へと歩いて行った。
 その背中を見て、僕にまた例の惨めな気持ちが浮かび上がってきた。
 でも、この頃には僕もその突然の土砂降りのような惨めさにも慣れていた。どう対処して良いのかを分かり始めていた。
(気にするな。そういうもんだ)
 惨めな気持ちを打ち消すための行為として、僕は男友達との益体もない相談事に花を咲かせることにした。

 文化祭当日。
 お祭り騒ぎを嫌いな日本人はいないという言葉を思い出した。誰が言ったのだろう? どうでも良い。
 何もかもどうでも良くなるくらいに、盛り上がっていた。
 芸術展とは名ばかりの物置と化した教室。見知らぬ顔、見知らぬ制服、見知らぬ声が入っては出て行った。
 僕らが出展したものは、瓦礫の寄せ集めのような尖塔。教室の天井に届くほどの大きさのそれを、友達数人と共同で作り上げた。
 街角のゴミ捨て場を漁り、各家の不要なものを集めて持ち寄り、勝手気ままに築き上げた塔は、贔屓目で見れば芸術と言えないこともなかった。
 ごてごてしていて、中身はすかすかで、色だけは原色で鮮やかに塗られていて……。
(ま、風刺は入ってるな)
 そんなことを思わずにはいられない尖塔は、ちょっとした目玉になってしまっていた。
 どうせ明日――いや、今日の夕方か――にはゴミ捨て場に戻るしかないガラクタに、楽しげな視線を向ける人々。
 確かに風刺は入っている。これ以上ないというくらいに。
 奥井はというと、やはり数人で集まり、この芸術展の看板を描いていた。必要なものだし、そういうものは女が描いた方が受けるという強引な理由からだった。そして実際評判は良かった。
『1年1組芸術展』
 そんな捻りも何も無い題名だったが、女性の手にかかれば魔法でも使ったかのように見える。カラフルで、繊細で、所々大胆で、そして何より楽しげに見える。
 その看板を描いていたときの奥井は、本当に楽しそうだった。うらやましくなるくらいに。
 有り触れた物を楽しく作り上げ、人の視線を集めた奥井。
 不要なものを組み上げて、物珍しさだけで注目された僕。
 対照的なふたりだと思う。
 出来損ないの屋台、幼稚な演劇、手抜きとしか思えない休憩室。そこに溢れる楽しそうな声たち。
 文化祭に浮かれる、学生の雰囲気。
 学校という閉鎖的な空間に溢れたそれらの要素は、僕の惨めさに拍車をかけてくれた。

 平凡な出来事は、非凡な出来事で締め括られる。
 大抵の場合は平凡なまま終わってしまうけれど、たまにはそういうこともある。
 文化祭が終わり、後夜祭も終わり、祭りの後の気分をかみ締めての帰途。
 彼女は、オレンジ色の街灯の下で僕を待っていた。
 告白、というやつだった。

 残暑も薄れて来た時期。秋口の夜。遠くから吹いてくる風は少し肌寒い。
 街灯に群れる虫達もめっきり減り、蛙の声はコオロギへと変わった。
 夜はどんな季節でも夜。それはとてもはっきりとしていて好きだ。日本に白夜がないことにはいつも感謝している。
「……え? どういうこと?」
 聞き返すまでもなく、僕は彼女の口から出た言葉の意味は分かっていた。
 彼女は、僕が、好きだと、そう言ったのだから。
 それ以外にどういった意味があるというのだろう?
 祭りの後の空気。落ち着ききらない鼓動。これは走り終わった時に良く似ている。
 終わってしまったのに、終わっていないと思いたい。
 錯覚。
「だからね、その……」
「いや、分かった。分かったけどさ、どうして僕なの?」
 真っ直ぐに僕を写している瞳。言いよどみながらも言葉で想いを伝えようとする姿勢。
 偽りのない気持ち。
 その全てが僕にどれほどのみじめさを与えているのか、彼女はきっと気付いていない。
「あのね、こんなことを言うと嘘に聞こえるかもしれないけど」と彼女は前置きをしてから言った。
 小さな深呼吸と、ゆっくりとした瞬き。唇が、スローモーションで動き出す。
「走っている君を見てて、『ああ、私はこの人のことが好きなんだな』って思ったの」
「え? どういうこと?」
 いまいち奥井が言おうとしていることの意味が分からず、僕は聞き返す。大事なことなのだ。
 彼女がどうして僕を選んだのか、僕のどこを見ていたのか、とても大事なことだ。
 中途半端な想いほど、後になって痛いものはないから。彼女にとっても、当然僕にとっても。
「息を弾ませて走ってる君がね、ありのままの姿で走っているような、そんな風に見えて……」
 いつもとは打って変わって、言葉を探しながら話す奥井。凛とした雰囲気の中には、迷いと苛立ちが混じっている。
(そうか。多分……)
 奥井の言いたいことは良く分からないけれど、多分彼女は、間違いなく、本気なのだろう。
 ぴったり合った言葉を探すために、必死で頭を働かせている。
 きっと幾つか答えは用意していたに違いない。告白といえば、その理由を質問されるのはつきものだから。
 でもそんな用意された言葉じゃなくて、自然と涌き出るような言葉の方が段違いに正しい。
 偽りのない、本心からの――
 今、僕は分かった。彼女の言葉が染み渡る理由を。
 彼女はいつでも本気で、真っ直ぐ向かい合ってくれる。
 だから僕の心の奥底まで声が届くのだ。
 そして、そんな彼女の言葉は僕の惨めさを更に加速させる。彼女は、気付かない。
「何だかこんな日にこんなこと言うのもちょっとおかしいかもしれないんだけど、でも、私はずっと……」
「良いよ」
「え?」
「いや、良いよ。分かった。奥井の言いたいことは分かったから」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、私と付き合ってくれる?」
「もちろん」
 どうしてそう言ったのかは分からない。予感、というやつかもしれない。ただの気紛れかもしれない。
 この先に、僕の惨めさを消してくれる出来事があることを、祈った。
 奥井はとても綺麗に笑い、ちょっとだけ涙ぐんでいた。
 こうして僕らは恋人同士になり、季節は本格的に秋へと変わっていった。

 夜空を見上げても、灰色にしか見えない。
 僕らの住む街はとても汚い街。
 排気ガスに光化学スモッグ、工場やゴミ処理場から出る煙。
 雑音と、不味い空気と、疲れた顔をした人々……。
 灰色の夜空。
 誰がこんな空を望んだのだろう?
 きっと、答えは出ない。

 秋空の下を、僕は彼女とふたりで並んで歩いた。
 灰色の青空の下、途切れることの無い雑音の中、僕らは並んで歩いた。
 彼女はとてもしっかりとしているようで、どこか夢の中の存在のような儚さを持っていた。
 触れれば霧散してしまいそうな、脆さ。
 闇を見せれば飲み込まれてしまうような、弱さ。
 でも、そんなものは誰でも持っている。もちろん、僕も。僕の場合は少しだけ特殊なだけだ。特別なことは何も無い。
 それでも彼女はいつでも真っ直ぐだったし、強くあろうと望んでいるように見えた。
 それが、彼女の強さだったのかもしれない。
 僕の惨めさは、消えない。
 走る時間が増えた。無茶な走り方をするようになった。スパイクを履き潰した。高校に入ってから二足目。
「お前、最近凄いな」
 先輩たちは尊敬の眼差しで僕を見ていたが、本当は全然凄くなんてなかった。
 ただ、惨めさを忘れるために走っていただけなのだから。
 そのせいで記録が伸びたというのは、皮肉以外の何物でもない。
 クラスメイトたちは僕らが付き合っていることを知ってはいるようだったが、特に何も言っては来なかった。遊びに誘われることが減ったくらいのものだ。
 とはいえ、元々僕は遊ぶということがあまり得意ではなかったし、せっかくの誘いを断ってばかりいた。
 そういう面ではほとんど何も変わらずに、秋が過ぎた。
 朱に染まった落ち葉が冷たい風に舞う、そんな並木道を彼女と歩いた。

 制服の上にコートを羽織るようになった頃。夜の空気が透明度を増した頃。
 彼女が、少しだけ笑わなくなった。
 始めは気のせいかとも思ったけれど、確かに彼女は笑わなくなっていた。
「どうしたの?」と訊いても、「何でもないよ」と答えるだけ。
 無理に作った、歪んでいる笑顔で……。
 その理由が僕にあるなんて、気付きもしなかった。

 その日は、午後から急に風が強く吹き始めた。
 遠く北の山から雪が届くのではないかと思ったくらいに。
 雪でも降れば良いと思った。
 雪は、世界を灰色に染めてくれる。
 僕の見ている世界が、取りたてて特別なものではなくなる。
 誰もが灰色に染まる、雪景色。
 でも、雪は降らず、その代わりに大きな出来事が降り注いだ。
 僕は、泣いた。

「君は、本当に私のことが好きなの?」
 僕の部屋の中で、唐突に奥井がそう言った。とても真剣な口調だった。
「え……」
 僕は何も答えられず、ただ彼女の次の言葉を待っていた。
『好きだ』と答えるのは、正直簡単なことだった。
 でも、それが僕の本心なのかどうか、自信が持てなかった。
 ただ一緒にいる時間が長いから、そう思っているだけなのかもしれない。
 そもそも十六歳くらいで『本当に好き』ということが分かるのだろうか?
 そんな、いつもと同じ歪んだ考えが、僕の中で渦巻いていた。
 答えられずにいると、奥井が次の言葉を吐き出した。
「最近ね、思うようになったの。私は君のことが本当に好きだし、こうしていつも一緒にいることがとても嬉しいよ。でもね、本当の君が見えないのよ」
 一息にそこまで言い募った奥井は、とても苦しそうに見えた。
 酸素が足りていない訳ではない。多分……。
(言いたくないのに、言わなくてはいられなかったんだろうな……)
 他人事のようにそんなことを思ってしまった。
「走っているときの君は、本当に素敵だよ? 手を抜かないで、自分に甘えないで、いつも本気で走ってる。でも、でもね……」
 奥井の瞳が、僕を真っ直ぐに射抜いた。
「普段の君は、何かに怯えているようで……」
 いつもと同じ、僕の中にだけ染み渡る声。彼女だけが踏み込んでくる、一番奥。
 その言葉は僕の全身へと行き渡り、大きな震えを呼び起こした。
 僕は――
 僕は、初めて自分のことに気付かされた。
 そうだ。僕は怯えていたのだ。
 灰色の世界。届かない声。無駄になってしまう努力。
 手に入らない、望んだ自分。
 こんな世の中に、怯えていたのかもしれない。
 奥井は違う。どんな時でも真っ直ぐに向かい合って、逃げたりはしない。
 だから僕は彼女と一緒にいる時、いつも惨めな気持ちになっていたのだ。
 そのことに気付いて、僕は……。
 一度だけ、大きく震えた。
 この震えは、寒さのせいだけじゃない。
「普段の君は、とても弱く見えるよ?他の人は気付かないかもしれないけど、私には分かる。だって、ずっと見ていたもの。ずっと、一緒にいたんだもの」
 閉じた瞼の裏は、黒だった。闇だった。
 何も、見えなかった。
 ただ奥井の本気の言葉だけが聞こえる。
「私のことは好きじゃなくても良いよ。でもね、私は君のことが好きだからもっと君のことを知りたいし、守りたいとも思う。それだけは、嘘じゃないよ?」
 真っ黒だった視界が、揺れた。
 そして、僕は――
 涙を流して、彼女にすがり付いた。

 僕は彼女に語った。今までの気持ちの全てを。
 それはとても辛く、汚く、暗く、重い気持ちだった。
 思春期の少年なら誰でも抱えている、将来への恐怖。
 見え始めて来た、自分の限界。
 世界が灰色に見えることも、自分の本気がどこに向かおうとしているのか分からないことも、全てを吐き出した。
 それを奥井は受けとめてくれた。
 ゆっくりと、時間をかけて……。
 そして、一言だけこう言ってくれた。
「本気を出してみれば良いじゃない」と。
 走っている時の、あの本気を出してみれば良い。そう彼女は言ってくれた。
 走っている時、僕はとても自由だ。
 何にも束縛されないし、どこまでも行けるような気分を味わうことが出来る。
 それを、出してみれば良いのだと、彼女はそう言った。
 僕はその言葉を聞いて、自分の中で縺れていた糸が解れたような気持ちになった。
 肩の力が、抜けたような気がした。
『今日のために生きてきた』
 そんな言葉が、脳裏をよぎった。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑った僕を見て、彼女も笑ってくれた。
「僕は、やっぱり君が好きみたいだ」
「私は、ずっと前から君が好きだったよ?」
 そう言って、彼女はキスをしてくれた。全ての過ちを許してくれる、キス。
 その夜、僕らは……。
 より深い結び付きを得た。
 
 彼女を――僕に大切なことを気付かせてくれた彼女の背中を見送っていた。
 街灯の向こうに消えた、彼女の背中。今までで一番失いたくないと思った。
「はぁ……」
 溜め息とは違う、吐息。濃い白に染まって、夜に消えて行った。
 何となく……。
 本当に何となく見上げた夜空は、今までとは違う色に見えた。
 もう、灰色じゃあなかった。
 僕らの住む街はとても汚い街だ。
 排気ガスに光化学スモッグ、工場やゴミ処理場から出る煙。
 雑音と、不味い空気と、疲れた顔をした人々……。
 灰色の夜空。
 でも、今日の夜空は違う。
 嘘のように澄み渡った夜空を満たしている、星たち。
 その光は細くか弱いけれど、確かに輝いている。
 僕の視界を、満たしてくれている。
(宝石箱をこぼしたみたいだ……)
 こんなこと、今までだったら絶対に思わなかった。
 変われるかもしれない。変えてもらえるかもしれない。
 変われるかもしれない。
 そんな期待が、僕の中で膨れ上がって、そして……。
 弾けた。
「よし!」
 近所迷惑にならない程度に意気込んで、僕は走り出した。
 肌を刺すような冷たい空気の中に身を躍らせた。
 走るのが好きだ。
 走っていれば、どんなこともどうでも良くなってしまうから。
 そう思っていた自分が、ひどく遠く思えた。
 今はただ、走りたいと、そう思った。
 変わろうとしている……。
 自然と浮かび上がる笑顔は、きっと彼女と同じ。
 彼女の言葉は僕にちゃんと届いている。時間はかかっても、確実に。
 それはまるで、星の光。
 柔らかく穏やかに光る、小さな一筋の道標。
 こんな気分の時に走らなくて、いつ走るというのだろう?
 満天の星空の下、僕は走る。
 新しい何かを胸に感じながら……。

───────────────────────────────────────
(Bastardly Anthologyより移行)
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  1. 2016/02/14(日) 21:15:19|
  2. 短編小説
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